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しものせき物語しものせき物語

episode.3

若き童謡詩人の巨星 金子みすゞ

金子みすゞとは

金子みすゞ(本名テル)は、明治36年(1903)、山口県大津郡仙崎村(今の長門市仙崎)に生まれ、大正12年(1923)、20歳の時に母の再婚先である下関の上山文英堂本店に移り住み、詩を書き始めました。わずか5年間に、万物へのやさしさを込めた512編の作品をつづり、若き童謡詩人の巨星として注目されながらも、26歳で亡くなりました。「すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。」「こだまでしょうか、 いいえ、だれでも。」という有名なフレーズに代表されるみすゞの清廉な詩は、世代を超えて、現代の人々の心に響き、感動を与えています。

金子みすゞの光と影

大正時代末期は、「赤い鳥」、「金の船」、「童話」などの童話童謡雑誌が隆盛を極めていた時代でもありました。
そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。少女時代のみすゞは、成績優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に作品を投稿し、そのすべてが掲載されるという鮮烈なデビューを飾り、「童話」の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。しかし、文壇での輝きと相反するように、その生涯は明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、離婚と苦しみが続きました。そしてついには、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。その中で彼女の残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。
それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。

金子みすゞの詩の小径

下関市では、金子みすゞ生誕100 年を記念して、唐戸周辺のゆかりの地を辿る「金子みすゞ詩の小径」を開設しました。 みすゞの詩の世界に思いを馳せながら、散策をお楽しみください。

  • START

    旧秋田商会ビル
    所在地:下関市南部町23-11
    (JR 下関駅よりバス7分「唐戸」下車すぐ)

    みすゞと実弟・上山雅輔に関する展示コーナーがあります。みすゞも、旧秋田商会の建物を眺めながら、隣の南部町郵便局のポストから、雑誌社宛の作品を投函したことでしょう。

  • 金子みすゞ顕彰碑(寿公園)

    この碑は、みすゞの20 歳の写真と紹介文、詩「はちと神さま」の3枚で構成され、みすゞを顕彰するため、上山文英堂があった場所に近い南部町の寿公園に平成10年6月に設置されました。

  • 弁財天橋

    田中川にかかる弁財天橋付近は、当時の風情が今も残っています。みすゞもこの川にかかる当時の橋を渡って、勤務先の商品館に通ったことでしょう。

  • 詩碑「日の光」

    金子みすゞの作品は、ほとんど下関で書かれたものであり、この詩碑「日の光」」も下関で発行されていた西日本文芸誌「燭台」に発表された詩の一つです。
    この詩碑は、平成9年3月9日、彫刻シンポジウム実行委員会により設置されました。

  • 詩碑「夏越しまつり」(亀山八幡宮)

    金子みすゞが創作した「夏越まつり」は亀山八幡宮を詠ったものだといわれています。平成15年12月に亀山八幡宮敬神婦人会により「夏越まつり」の詩碑が設置されました。

金子みすゞ年譜

1903年父・金子庄之助、母・ミチの長女として生まれる
1910年瀬戸崎尋常小学校に入学
1923年郡立大津高等女学校に入学
1923年4月に下関の上山文英堂に移り住み、5月頃、商品館内にあった同店支店で働き始める
6月頃、「みすゞ」のペンネームで雑誌に投稿を始め、以後約90編を発表する
1926年2月に結婚、11月に女児を出産
1927年夏、下関駅(旧下関駅)で西條八十に会う
1929年夏から秋にかけて3冊の遺稿集を清書
夏以降、病の床につく。10月から娘・ふさえの言葉を採集する『南京玉』を書き始める
1930年2月に夫と正式離婚
3月10日、上山文英堂内で死去

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